支部ブログ:福島県支部
 

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獨協大学同窓会・福島県支部の活動やイベントなどの最新情報をお知らせします。

福島県支部

絆から幸せの国へ

だいぶ旧聞になりかけていますが、ラジオ福島で放送した「獨協の絆」につきましては、関係者、出演者、聴取者などの皆様にはお世話になりました。本当に感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございます。

まさに「獨協の絆」でありましたし、卒業生の皆さんは多士済々であり一騎当千の方々であることを改めて実感しました。未聴取の方がおられましたら「同窓会ニュース」からアクセスしてお聴きください。よろしくお願いします。

ここで福島県支部よりグッドニュースをホットニュースでお伝えします。「獨協の絆」6回目の放送に出演した小原一典君が世界一幸せな国ブータンのサッカー代表チーム監督に今月就任しました。…スゴいでしょ! 彼は市立船橋高校の名門サッカー部から獨協大学サッカー部を経て、スペインでサッカーのコーチ留学をしています。

昨年3月11日は、福島県富岡町にある日本サッカー協会JビレッジでU15チームの監督をしてました。原発事故の後、チーム解散に伴い監督退任していましたが、このたび日本サッカー協会からの派遣でブータン代表チーム監督に就任したという訳です。そして本日5月17日に彼からブータン到着報告のメールが届きました。

どなたか「小原一典監督激励と会いに行こうツアー」を企画していただけませんか? 日程次第ですけど、私は行きたいです。皆さん、一緒に行きましょう!

福島県支部長 星

ラジオ福島で復興プロジェクト

 福島県支部幹事の佐藤です。
 福島県支部の皆さま、そしてすべての同窓生の皆さま、謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
 昨年は、「地震」「津波」「原子力事故」そして、これに伴う「風評被害」など、福島県はかってない誰も経験したことのない大災害に見舞われましたが、皆さまからいただいた温かい励ましや力強いご支援に『復興』の2文字を諦めることなく頑張ることができました。心から感謝を申し上げます。
 2012年は、一歩ずつでも確かな歩みで、明るく笑顔あふれる一年にしたいと思っております。
 どうぞ、よろしくお願いいたします。

 さて、ここでお知らせです。
 同窓会本部のご支援により、昨年から進めてまいりました『同窓会復興プロジェクト by ラジオ福島』がスタートいたします。
 新春を寿ぐにふさわしい1月7日から8回にわたり、福島県支部副幹事でもあります山地アナウンサーが聞き手となり、同窓生に出演いただくもので、毎週土曜日、午前10時40分から5分間の番組です。
 もちろん、福島県ばかりでなく昨年、地震にみまわれた東北地方、そして台風による大きな被害に遭われた地域の皆さまが、少しでも立ち上がるきっかけをという趣旨です。
 さらに、「獨協大学同窓会」の冠を付すことによりこれから大学進学を目指す子供たち、さらには保護者の皆様が「獨協大学」に対して、より一層良いイメージを持たれることを期待するものです。
 初回は、大曲同窓会会長に出演していただく予定でありますので、是非ラジオのスイッチを入れていただきたいと思います。
 この番組内容は、後日、同窓会ホームページににも掲載する予定で進めておりますので、当日、聴くことができない方々も大丈夫ですよ。

 以上、新年のご挨拶と、復興プロジェクト by ラジオ福島のご案内でした。
 皆様のご健勝とご多幸を心からお祈り申し上げます。

大震災と原発事故のこと(3)

前回の記事の続きです。

宮城県柴田町には7月初めに引っ越しました。当時の放射線量は、福島市の自宅前で毎時1.0マイクロシーベルト前後、柴田町のアパート前で毎時0.2マイクロシーベルト前後でしたから、単純計算で被曝量は5分の1になると考えられました。最初のうちは、日常生活に必要なお店がどこにあるのかもわからず、知り合いもまったくいない状態なので大変でしたが、少しでも安全な環境で子供を育てるためには、このぐらいの不便は仕方がないと思いましたし、住み続けるうちに慣れてくるだろうと考えていました。

私たちの部屋はアパートの2階でした。4歳ともうすぐ1歳の娘がいますから、階下に迷惑をかけると思い、床全面に防音マットを敷き詰めたうえで、早めに挨拶をしておきました。「子供が小さいうちは仕方ないんだから、気にしないで」と言っていただきましたが、その当時から、子供が歩いたり大声をあげたりすると、床下からドンと音がしていたのです。引っ越し当初はまだ歩かなかった次女も、1歳を過ぎると歩き始め、何歩か歩いては尻もちをつくようになりました。それにつれて階下からのドンという音も頻度が増してきましたので、明らかに「うるさい」と言われていると思い、子供たちを静かにさせようとしましたが、4歳の長女はまだしも、1歳の次女に歩くな転ぶなというのは無理な話で、階下から床を突き上げるようにドンッとされてはビクッとするという生活になっていきました。しかし、階下の住人に外で会ったときに謝ると、「いいんだよ、気にしないで」と言うのです。彼らの真意がわからないまま、数か月が過ぎました。

11月半ばごろ、私の留守中に、妻が階下の奥様から口汚く罵られるという事件がありました。要は「うるさいから出て行け」というのです。思わず妻が言い返した言葉に逆上したらしく、その日から床を突き上げるようなドンドンという音が非常に激しくなりました。妻も子供たちもおびえていましたので、翌日から妻子だけを福島市の自宅に帰すことにしました。私は仕事のために残りましたが、私一人ならうるさいこともなく、階下の住人も落ち着くだろうと考えていました。しかし、その考えは甘かったのです。妻子を帰したその日の夜、私が買い物に出かけて帰ってくると、アパートの階段の上り口に階下の奥様が待ち構えていました。そして、妻が言い返した言葉に対する謝罪を要求するのです。このとき既に不動産会社に相談していましたので、当事者間で話すよりも第三者を交えて話すことを提案しましたが、相手は納得しません。数分間のやりとりの後、彼女は私の胸倉をつかむと、殴りかかってきました。

お恥ずかしい限りですが、私は殴られるままでした。階下の旦那様が大声と騒音を聞きつけて出てきて、奥様を止めてくれました。明らかに暴行事件ですので、私は警察を呼びました。話を聞くと、階下の奥様は心を病んでおり、3月の震災以来、悪化していたようです。旦那様の自動車は津波で流され、会社の同僚も何人か津波で命を落とされたらしく、そこに私たちが避難区域でもない福島市から自主避難してきて、私は一日じゅう家にいるのでニートのように見え、県からいろいろと援助を受けているようだということで、自分たちも被災者なのにどうしてあいつら(私たちのこと)だけ、と不満を募らせていたようです。同じ震災で被災した土地に避難することの難しさを痛感する出来事でした。

これをきっかけに私たちは福島市に戻ることを決め、12月初めに引っ越してきました。知らない土地でゼロから生活を立ち上げる気力はもう残っておらず、これからずっと福島市で暮らしていくことになると思います。原発事故から9か月以上たった今でも、相変わらずリビング室内でさえ毎時0.4マイクロシーベルト前後を記録していますが、食べ物や飲み物などに気をつけながら、なんとか耐えて乗り切っていくしかないのだと思います。話を聞くと、震災以降に各地に自主避難したものの、本格的な冬を前にして福島に戻ってくる人たちが増えているとのこと。いろいろな事情があると思いますが、慣れない避難先での生活に疲弊して、やむなく戻ってくる人たちも多いのではないでしょうか。

つい先日、日本政府は原発が「冷温停止状態」になり、事故は「収束した」と発表しました。これは私たち福島県民の苦悩に満ちた生活の実態を、直視するどころか一顧だにしない暴論であり、絶対に受け入れることはできません。しかし、私のような一個人がどれだけ声を上げたところで、その声が政府に届くことはないでしょう。それでも、1人でも多くの方々に、小さな子供を抱えて右往左往する私たちのような人々の姿をわかっていただきたく、この3回にわたる記事を書きました。とても冗長で読みにくい文章ですが、最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

大震災と原発事故のこと(2)

前回の記事の続きです。

5月初めごろから、自主避難を考え始めました。福島県の健康リスク管理アドバイザーになった某大学教授は、福島県内では「笑っている人に放射能は来ない、クヨクヨしている人に放射能は来る」とうそぶいていましたが、彼の地元の新聞では「恐るべきことで、子供や妊婦を中心に避難させるべき」とインタビューに答えており、そのあまりの二枚舌ぶりに私は公的機関から発せられる情報すべてが信用できなくなっていました。5月下旬には自分で線量計を購入し、自宅周辺の測定を始めました。子供たちが一日の大半を過ごすリビングでは、毎時0.4マイクロシーベルト前後でした。放射線の専門家でさえ意見が真っ二つに分かれる中、この数字が何を意味するのかを私のような素人が判断することは、とても困難なことでした。

震災ホームステイというWebサイトがありました。今回の震災で住居を失った人たちに無償で家屋や部屋を貸してくれるという情報が集約されたWebサイトでした。福島市からの自主避難も対象になるとのことで、いろいろと検討して、埼玉県西部の寄居町にある物件に申し込みをしました。6月の初め、家族4人で下見に行きました。福島市から寄居町までは、高速道路を乗り継いで4時間半の距離です。これだけ離れれば、放射線の心配はないだろうと思っていました。しかし、寄居町役場に車をとめて、そこで線量を測ってみると、毎時0.2マイクロシーベルト前後もあるのです。今でこそ文部科学省の調査によって、かなりの広範囲に放射性物質が拡散したことがわかっていますが、当時そのような情報はなく、自分の線量計が壊れているのではと疑いつつも、予想外の測定値に動揺していました。

高速道路で4時間半の道のりを走っても安全地帯に行き着けないことに、心の底から失望しました。おそらく東日本には、もう安全と言える場所は残っていないのだろうと悟りました。しかし北海道や西日本にまで避難先を求めることには抵抗がありました。なぜなら私も妻も、両親が福島市にいますし、友達も福島に残る人が多く、ふるさとを捨てて他所に行くつもりはなかったからです。長女が小学校に入るまでの間、2年半ぐらいだけ、福島を離れてみようと思っていました。だから飛行機で行くような遠隔地は検討に入れませんでした。また、近場の避難先として山形県や新潟県が人気でしたが、いずれ冬になったときに豪雪に順応する自信がなく、選択肢から外しました。

いろいろと調べているうちに、宮城県南部でも大河原町や柴田町まで行けば、だいぶ線量が低くなることに気付きました。当時の測定値は毎時0.2マイクロシーベルト前後だったと思います。福島市から柴田町までは国道4号線で1時間半ほどです。高速道路で4時間半の寄居町とほとんど線量が変わらない場所が近くにありました。とはいっても宮城県自体が被災地であり、放射能から逃れるためとはいえ被災地に避難するということが許されるものなのか、だいぶ悩みました。宮城県による民間賃貸物件の借り上げ制度もありましたが、福島県からの自主避難者が対象となるかどうかは不明でした。しかし、もう選択肢が他に残っているわけでもなく、とりあえず家賃など避難にかかる費用は自腹になることを覚悟のうえで、柴田町に民間のアパートを見つけました。

今回もだいぶ長くなってしまいました。この記事を後編にするつもりでしたが、話が終わらないので、これを中編とし、次回を後編として最後まで書きたいと思います。

大震災と原発事故のこと(1)

ブログ管理人のカンノです。今回は私なりに大震災と原発事故のことを書いてみようと思います。

3月の大震災のとき、私は家族と一緒に福島市内の自宅にいました。私は在宅勤務の会社員なので、平日は一日じゅう家にいるのです。休憩するために、仕事部屋から家族のいるリビングに入ろうとしたとき、地震が起きました。当時3歳の長女はソファに座っていたので、真っ先に抱きかかえました。妻はすぐそばの棚が倒れないように押さえていて、動けないようでした。当時0歳の次女はベビーベッドに寝ていたのですが、地震の激しい揺れで前後左右にゴロゴロと転げまわっていました。私と長女のいるソファからそのベビーベッドまでは、ほんの2〜3歩なのです。しかし、その2〜3歩の移動もままならないほど、ものすごい揺れでした。少しだけ揺れがおさまった瞬間をとらえて足を踏み出し、それでも足元のうねりに翻弄されながら、やっとのことでベビーベッドから次女を抱きあげてソファに戻り、両腕に娘たちを抱きかかえ、妻の無事を確かめながら、恐ろしい数分間を過ごしました。

しかしその後には、もっと恐ろしいことが待っていました。原子力発電所の事故です。当時の私は、あまり深刻に考えていませんでした。地震直後に水道が止まり、さまざまな物資が不足している中、飲料水や食料などは1人あたりの購入点数に制限があるため、私は長女を連れて、開店前のお店の前に並んでいました。他の客の携帯にメールが入り、原発からの放射能が福島市にも流れてくるから、今すぐ避難するようにとの内容でした。なんて大げさな、と私は思いました。これがいわゆるチェーンメール、デマメールであると。しかし実際には、このとき毎時20数マイクロシーベルトという非常に高い放射線が福島市で観測されていたのです。数日後にその事実を知ったところで、後の祭りでした。

4月になると桜が咲き始めました。鬱々とした1か月を過ごした後、桜の花はいつもよりとても綺麗に見えました。福島市には、花見山という桜の名所があります。例年、日本全国から観光客が訪れて大変混雑するので、いつもは行かないのですが、今年は原発事故の影響で観光客が少ないだろうとの予想もあり、日々鬱積しているストレスを解消したいとの思いもあり、長女を連れて花見山に出かけました。もちろん長袖に長ズボン、マスク着用です。しかし予想に反して自動車が行列するほど混んでおり、少し離れた駐車場に誘導されて、子供の足では15分か20分ぐらいでしょうか、花見山に到着する前にだいぶ歩かされました。しかもこの日はとても暖かく、長袖に長ズボンにマスクを身につけている私たちは花見山に着いた時点で汗だくでした。少しぐらいなら良いだろうと思い、娘のマスクを外してやりました。滞在時間は1時間ぐらいだったと思います。美しい花々を満喫して帰宅しました。花見山は福島市の渡利地区にあります。渡利地区が福島市内でも特に放射線量が高いことを知ったのは、しばらく後のことでした。

だいぶ長くなりましたので、前半はこのぐらいにして、後半はまた後日に書きたいと思います。

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